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「ドビュッシー」のイメージ写真

感性と色彩の音楽家 「ドビュッシー」

「亜麻色の髪の乙女」や「月の光」など、一度聴いたら忘れられない独特の空気感を持った美しいピアノ曲で、女性ファンも多いクロード・ドビュッシー(1862~1918年)。2018年は、ちょうど没後100年の年にあたります。そこで今回は、混沌(こんとん)とした世紀末(19世紀末)のパリでかたくなに自らの美意識を貫き、伝統に縛られていたフランスの芸術世界に新しい流れを作ったドビュッシーの感性に触れてみましょう。

形式美を超えた、美への希求

音楽の歴史年表

19世紀後半フランスで生まれた印象主義は、それまで主流だった技巧的な芸術様式からの転換、あるいはより自由な表現を求めた脱保守派のムーブメントであり、『睡蓮』で知られるモネを中心とした画家集団が推進していました。ドビュッシーの音楽は、しばしばこの印象主義に例えられます。とらえどころのないメロディラインやアンニュイな響きは、あいまいな輪郭ときらめく色彩で主題よりも全体の空気感を描こうとした、印象派の絵画をほうふつとさせます。

当時の保守派、フランス芸術アカデミーがこの印象主義を用いてドビュッシーの音楽を批判しました。“度が過ぎる”鋭い感覚と、正確さや形式美の欠如を指摘しつつ、「この漠然とした『印象主義』は、芸術作品のもつ真実をそこなうもっとも危険な敵の一つであるから、うっかり心をゆるさぬように、つよく彼にのぞみたい」(『ドビュッシィ 印象主義と象徴主義』より)と、ドビュッシーに警告したのでした。

心象風景に導かれた音楽の方向性

海の風景の写真

少年時代のドビュッシーは刻々と姿を変える海の風景に心を奪われ、後に音楽でそれを表そうと試みた。

パリ近郊の貧しい瀬戸物商の息子として生まれ、音楽どころか初等教育もまともに受けていないドビュッシーが、なぜ芸術アカデミーをも脅かす鋭い感覚や独特の美学を身に付けることができたのでしょうか。

実は、ドビュッシーは幼いころに絵画の収集家だった裕福な伯母の家に預けられ、数々の“本物の美”に触れて育ちました。そこでピアノのレッスンを受ける幸運にも恵まれ、音楽の才能を開花させます。また、伯母とともに過ごしたカンヌの美しい海辺やどこまでも続く水平線は彼の心象風景となり、「鮮烈な印象を残した」と後年ドビュッシー自身の口からも語られています。彼の美的感覚、音楽で表される豊かな色彩感覚は、ごく幼いころから育まれていたのですね。

芸術は、感じたままを形にすること

「牧神の午後への前奏曲」のイメージ写真

ドビュッシーが敬愛した詩人マラルメの詩に触発された作品「牧神の午後への前奏曲」は彼の出世作となった。

10歳でパリ音楽院の奨学生となったドビュッシーは、その後貴族や資産家の雇われピアノ奏者として彼らに付いてヨーロッパ中を旅したことから、異国の音楽に触れる機会も得ました。また、そうした経験から上流社会の流儀にすっかりなじんだドビュッシーは、やがて世紀末の退廃的な香りを漂わせたパリのサロンで繰り広げられる詩人や文学者、演劇人などの芸術談義に加わるようになります。

やがてサロンのひとつ「火曜会」を主宰していた19世紀の象徴派を代表する詩人・マラルメと出会い、ドビュッシーは彼の詩『牧神の午後』に曲を付けました。そこで生まれた「牧神の午後への前奏曲」はドビュッシーを作曲家として確立させ、また、当時ヨーロッパの知的階層に圧倒的に支持されていた詩人・劇作家のメーテルリンク(『青い鳥』の作者)が書いた戯曲『ペレアスとメリザンド』のオペラ化を実現したことで、その名声をゆるぎないものにしました。

ドビュッシーの交響詩「海」のスコアの表紙には、彼が部屋に飾っていたという葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』の模写が使用されています。西洋音楽と浮世絵の組み合わせからは、あらゆる形式にとらわれない美意識は国や文化も超えるのだという主張が伝わってくるようです。心が美しいと感じたままを切り取ることこそが、ドビュッシーにとって芸術の本質だったのでしょう。

【参考文献】
『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』(東京書籍)、『ドビュッシィ 印象主義と象徴主義』(音楽之友社)、
『3日でわかるクラシック音楽』(ダイヤモンド社)

「海“ドビュッシー没後100年”」のCDジャケット
今月の1枚

ドビュッシー没後100年を記念して作られたこのアルバムのテーマは“ジャポニスム”。葛飾北斎の名画に刺激を受けた交響詩「海」をはじめとしたドビュッシー作品のほか、同時代に生まれた音楽の数々も楽しめます。
ドビュッシー:「海“ドビュッシー没後100年”」

ウエルネスライフマガジン 2018年3月号掲載分

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